連載 第十二話 透 二十七歳 人と人の十年

第十二話 透 二十七歳 人と人の十年


東京で幼少期を過ごした透にとって、海は特別なところだった。
いつでも行けるところではなくて、夏休みの家族旅行で行けるかどうかの場所。そうして、どうにか辿り着いた伊豆地方の海は、いつも大勢の人で溢れていた。みんな海が好きなんだ、だからこんなに人がいるのも納得できるし仕方がない、子供心でそんなことを思っていたかどうか分からないが、透は海が好きだった。

大学生の頃、みんなで明日香の実家に遊びに行こう!ということになって吹奏楽部同期生数名で夏休みも終わりという頃に押しかけた。明日香の実家自体は山間に建っていたが、車で数十分のところに海が広がっていた。それは透が見たことがない、静かな海だった。
八月の前半といえば、都内で言えばまだまだ海水浴シーズン。なのに、今目の前にいるのは地元の子供達が数人というぐらいで、波も穏やかで心静まる海。
それ以来、そんなに遠くもないし、何度も行こう行こうと思いつつ、結局来ることができなかったが、ようやく今年の夏は予定を調整することができた。
メールによる連絡を取り合ってはいたが、明日香に会うのも卒業以来初めてだった。


◇         ◇         ◇

「お邪魔しまーす!」

「はーい。いらっしゃーい。適当に荷物置いて上がってきてー」

奥から明日香の声はするが、姿は見えない。
言われた通りにして部屋の奥へと続く扉を開けたら、明日香は居た。
表情にも声色にも気をつけながら「ひさしぶりー」と声に出したが、内心は動揺していた。明日香は部屋の中で電動車椅子に乗っていた。だからといって元気がないわけでもない。
表情も明るいし、自分たちがよく知っている、学生時代から風貌もさほど変わらない明日香だった。

今回は、仕事の都合が付いた吹奏楽部同期三人だけで来た。
海水浴が目的でもないので、部屋の中で近況やらを話しているだけで有意義に時間が過ごせていると思えるようになったのは、大人になった証拠なんだろうか。
学生時代は、同じ学内で活動していた仲間が、今はそれぞれの仕事場で揉まれている。
人並みに愚痴もあるし、思い出話も盛り上がる。けれど、透の視線は部屋の至る所にある、見慣れない器具に興味を引きつけられていた。

「明日香、これって何?」

透が指さしたのは、天井から吊り下がっているリフトのような器具。それは床に寝ころんだ状態から、車椅子に座るために使われるものらしい。それ以外にも、明日香の部屋の隣はトイレなのだが、以前は壁であった面にトイレへの入り口ができている。さきほどのリフトに掴まって、そのままトイレへ行けるよう、モノレールの線路のように天井にトイレまでのレールが引かれている。あまり人の家をジロジロ見るのは気が引けたが、よく見るといたる所が、改装されていた。


一口に改装といっても、単純にお金がかかる。
市町村ごとに、介助設備設置に関しての補助金制度というものがあるというが、金額や制度にばらつきがあるらしい。例えば、住宅改修という大きいくくりの補助が年間で三十万まで、という市もあれば、一人につき一生で三十万という場合もある。
同じ三十万でも、一年と一生では基準が違いすぎることに、まず驚いた。身体能力に障害がある・ないに問わず、いずれ自分の親や自分自身の問題として直面するようなことだ。けれど、そういった補助金制度について、全く無知だった。

「自分の住んでるところによって助成金が違ったりするし、
今から調べておいた方がいいよ。」

あっけらかんと明日香は言うが、今日まで彼女も相当大変だったと思う。
けれど、これで終わりではなく、まだ病気は進行しているようだ。昔、歩いたり自転車に乗っていたりしていた頃よりも、身体に残っている筋力が少なくなってきてしまった分、進行のスピードはゆっくりになったように感じるという。けれど、寝返りが打てなくていまいち熟睡することができないと語る明日香の顔は心なしか辛そうだった。

けれど、悪い話ばかりでもなく去年、遠位型ミオパチーという明日香と同じ病気を持つ患者の集まりに参加したことは、とてもよかったようだ。そういえば同期の和美からも、付き添いで参加したというメールが来ていたような気がする。
学生時代に病名を告知された頃は、薬はおろか回復の見込みもなく、本当にお先真っ暗という心境だったらしいが、今の時点では雲を掴むような話とはいえ、進行を止める薬の研究開発は着々と進んでいるらしい。

透は大学卒業以来、今日までここへ来ることができなかったが、同期の仲間は入れ替わり
立ち替わり、年に一、二度は明日香の所へ来ていた。
「明日香があまり外出できなくなってきているなら、こっちからみんなで会いに行こう〜!」というのが最初の頃の動機だったが、その後は、進行する病状が心配だったり、ここへ集まることを口実に昔の仲間も招集して皆で会えることもあり、同期の中では暗黙な内に、不定期恒例行事になっていた。
もしも治療薬が完成して、進行が止まり、トレーニングやリハビリ次第で筋力が戻るのならば・・・。それは透にとっても、いや、明日香を慕う今この場にいない全員にとっても、一番の希望であり「願い」だった。

今はまだ、透達にできることはないようだったが、
「近い将来なんらかの形で協力をお願いするかもしれない」という。
明日香の話しぶりから、それは何かの準備が整いつつあり、時期が訪れるのを待っていることは分かったが、それ以上聞く必要もなかったし、いつ頼まれても、毎日連れ添っていた昔のように動ける心の準備が、透達全員にできていたから全く問題はなかった。

「せっかく、こんなとこまで来たんだから、海とかいかないの?」と、明日香に言われ
「よっしゃ、じゃあ行こうか!」と家の外へ出た。

皆で補助をしながら、車椅子から車のシートへ明日香を乗せて海へ向かう。
久しぶりの海は、水温も低く、既にうっすらと秋の気配も漂っていた。
それでも透は初めてここへ来た日のように泳いだ。
ひとしきり泳いで、沖の堤防の上に登り、一人寝ころんだ。
太陽に照らされて熱を含んだアスファルトのぬくもりを背中に心地良く感じながら、
ゆっくりと真上を流れていく雲を見ていた。

同期の仲間と明日香と会って、もうじき十年になる。
皆、この十年間色々なことを経験してきた。
変わって欲しくなかったことは、明日香の病状。
これは仕方のないことだけれど、確実に進行している。
一方、変わってきているのは、回復・改善への道。
これも着実に進んできている。
そして変わらないのは、この海の静けさと美しさ、それに透達の思い。
皆が明日香のことを心のどこかでいつも思っている。
その思いが、一日も早く形になって欲しいと、碧い空と海の狭間で彼は思った。


『結』  明日香 二十八歳 願いを現実に  続く