第五話 明日香 二十一歳 告知
東京とはいえ、大学があるのは二十三区を遠く離れた西の外れにあるので、実家と同じぐらい寒い。この冬が終われば大学も半分は終わり。長いようで短い四年間。あとの二年間は卒業論文も書かなくてはいけないし、就職活動についても考えなくてはならない。
冬の寒さで萎縮している身体であるけれど、そうもいってられず、重い腰を上げなくていけない。けれど、いまいちハッキリしない自分自身の身体がよりいっそう気分を重くしていた。
春休みが来て、検査入院生活が始まった。病室に一通りの荷物を置いてから、机が一つだけ置いてある個室に呼び出されて、これからする検査について説明があった。担当の医師は神経内科の人で、「筋肉が炎症を起こす病気かもしれない。もしそうだったら薬でよくなる可能性があるけれど、精密な検査をしてみないことには分からない」という。
ある程度の予測の元に、病状を限定するのに必要となる検査をこれから行うので、それに同意する、という趣旨の書類に目を通してから実際の検査は始まった。血液検査に始まり、MRI、エコー、筋電図、筋生検・・・などなど。私にはいちいち理解していく時間もないほどの検査をした。
(やるからには、この際ありとあらゆることが調べ尽くされて分かればいいのに)
それぐらいに思うことにした。
入院のことは、あまり周囲には話していなかったけれど、吹奏楽部の練習を休まなくてはいけなかったので、部内の友人には知らせていた。
「明日香ちゃん、だいじょうぶ〜?」とお見舞いに来てくれるのは嬉しかった。
けれど、「体調、どこが悪いの???」と言われても自分でも正直言って分からない。
疲れやすくて、筋肉痛がひどくて、股関節が痛む。
「それ、ただの運動不足じゃん!ちゃんと食べて運動すれば治るって」
そうだといいな、と思った。
でも、そうではなかった。
◇ ◇ ◇
数日後出た診断は「筋肉が無くなっていく病気の一種だろう」と告げられた。母は仕事も忙しく、医師からの告知は一人で聞いた。医師は、「現段階ではこれ以上詳しいことは分かりません。もうしばらくしたら、詳細な病名を特定できます。ただ、単純な病ではなく、これからもっと不自由になっていくことが予想されます。気持ちをしっかり持って、長くこの病と向き合っていかなければなりません。」そんな趣旨のことを言われた、気がする。
気がするというのは、この時の記憶は曖昧だから。
薄々感じていたこととはいえ、事実を他人から知らされると、ことの大きさがより現実味を帯びてくる。
(ずっとこんなにだるいままかぁ。・・・というより今よりももっと悪くなるのか。
私・・・、この先どうなるんだろう)
ついこの間、成人式をあげたばかりの新成人には、一人で背負うには重すぎる現実だった。暖房の利きが悪い、寒い病院の廊下にあるイスに座り、一人でこれからのことについて頭を巡らすと、変な吐き気がしてきて、トイレに駆け込んで吐いた。朝から何も食べていなかったから、何も出るわけがない。苦しさと気持ち悪さに目を潤ませながら、母に側にいて欲しかったと思った。それが無理でも、側に誰か一緒にいてもらって告知を聞きたかった。誰か居たら居たで、取り乱して一人になりたい!って思ったかもしれないけれど、でも今は誰かに背中をさすっていてもらいたかった・・・。
この日から、改めて私とこの病気の生活が始まった。
大学三年の五月頃、病院から連絡があり、改めて出向いた。
詳しい検査結果が出て「空胞を伴う遠位型ミオパチー」という病名を初めて告げられた。
担当医師は、
「まだまだ不明なことだらけの病気でどれくらいのスピードでどこまで進行するのか、はっきりわかってはいないし個人差も大いにある。ある日どこかで進行が止まる可能性だってないとは言い切れない。」と前置きした上で
・身体の末端部分の筋肉から徐々に細くなって動かすことが困難になっていくこと。
・一部例外の症例もあるようだけれど、内臓筋力や呼吸器・心臓などには影響がないこと。
・首よりも上の部分、頭に関しては影響がないこと。
・日本には約百人ぐらいの同じ症状の患者がいると言われているけれど、専門的な医師や医療機関不足で把握し切れていないことが多く、実際はもっと多いのではないかということ。そして進行を止める薬も治療方法も今はない、ということを言葉を選びつつ説明してくれた。
目は見えていても、お先真っ暗とはこのことかと思った。とりあえず、今すぐ寿命に影響がある病ではないということは分かったけれど、治療方法が一切無いというのは、心が折れそうになった。病状についても、「〜かもしれない。」、「〜らしい」ということばかりで、何が典型的で何が例外という線引きもまだまだこれからという、曖昧なことしか分からなかった。唯一わかったことは、徐々に不自由になっていく自分の身体と向き合っていくしかない、ということ。だからといって、安静にしていればいいわけではないらしく、日常的にできるかぎりの運動や筋力は使っていく方がよい、と言う。何もしなくても筋組織は細くなってしまうから、筋肉を使うことで進行のスピードを和らげることはできるらしい。ただし、筋肉痛を引き起こすほどの過度の負担をかけると筋組織が破壊され過ぎてしまうから、やり過ぎは良くない。
普通、トレーニングをすると一度筋組織は破壊されるが、その刺激で身体には「超回復」という現象が起きて、トレーニング前よりも再生されて、その結果筋組織は増大する。この病気の場合、再生が少なくて破壊の割合の方が勝るので結果的に筋組織が減少してしまうという。
色々なことが分かってきたが、制約が多すぎて、そんな都合良くできるんだろうか?と思った。しかし、やっていくしかないという。
不安なことだらけだった。
これからはできることと、できないことをしっかり見極めていく必要がある。そんな私と同じ病を持つ人が少なくとも百人はこの日本にいる。その事実が分かって、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。だからといって病気の症状には何も影響はないけれど、世の中には、まだ一人しか見つかっていない病気というのもあるらしい。もちろん一人だから治療方法も何もかも分かっていない。
遠位型ミオパチーには研究者もいるようだし、いつかは治療方法も判明するかもしれない。ただ、それがいつになるか分からない。それまでは、この自分自身の身体と向き合っていくことが最大の課題のようだった。
中学生の頃から続いていた身体の不調は、ずっとこれが関係していたのか。何年間も抱え続けていた疑問が急速に解明していったが、思いの外、心模様は暗く、病院の窓から見えた晴れ晴れとした初夏の空とは対照的だった。
(続く
東京とはいえ、大学があるのは二十三区を遠く離れた西の外れにあるので、実家と同じぐらい寒い。この冬が終われば大学も半分は終わり。長いようで短い四年間。あとの二年間は卒業論文も書かなくてはいけないし、就職活動についても考えなくてはならない。
冬の寒さで萎縮している身体であるけれど、そうもいってられず、重い腰を上げなくていけない。けれど、いまいちハッキリしない自分自身の身体がよりいっそう気分を重くしていた。
春休みが来て、検査入院生活が始まった。病室に一通りの荷物を置いてから、机が一つだけ置いてある個室に呼び出されて、これからする検査について説明があった。担当の医師は神経内科の人で、「筋肉が炎症を起こす病気かもしれない。もしそうだったら薬でよくなる可能性があるけれど、精密な検査をしてみないことには分からない」という。
ある程度の予測の元に、病状を限定するのに必要となる検査をこれから行うので、それに同意する、という趣旨の書類に目を通してから実際の検査は始まった。血液検査に始まり、MRI、エコー、筋電図、筋生検・・・などなど。私にはいちいち理解していく時間もないほどの検査をした。
(やるからには、この際ありとあらゆることが調べ尽くされて分かればいいのに)
それぐらいに思うことにした。
入院のことは、あまり周囲には話していなかったけれど、吹奏楽部の練習を休まなくてはいけなかったので、部内の友人には知らせていた。
「明日香ちゃん、だいじょうぶ〜?」とお見舞いに来てくれるのは嬉しかった。
けれど、「体調、どこが悪いの???」と言われても自分でも正直言って分からない。
疲れやすくて、筋肉痛がひどくて、股関節が痛む。
「それ、ただの運動不足じゃん!ちゃんと食べて運動すれば治るって」
そうだといいな、と思った。
でも、そうではなかった。
◇ ◇ ◇
数日後出た診断は「筋肉が無くなっていく病気の一種だろう」と告げられた。母は仕事も忙しく、医師からの告知は一人で聞いた。医師は、「現段階ではこれ以上詳しいことは分かりません。もうしばらくしたら、詳細な病名を特定できます。ただ、単純な病ではなく、これからもっと不自由になっていくことが予想されます。気持ちをしっかり持って、長くこの病と向き合っていかなければなりません。」そんな趣旨のことを言われた、気がする。
気がするというのは、この時の記憶は曖昧だから。
薄々感じていたこととはいえ、事実を他人から知らされると、ことの大きさがより現実味を帯びてくる。
(ずっとこんなにだるいままかぁ。・・・というより今よりももっと悪くなるのか。
私・・・、この先どうなるんだろう)
ついこの間、成人式をあげたばかりの新成人には、一人で背負うには重すぎる現実だった。暖房の利きが悪い、寒い病院の廊下にあるイスに座り、一人でこれからのことについて頭を巡らすと、変な吐き気がしてきて、トイレに駆け込んで吐いた。朝から何も食べていなかったから、何も出るわけがない。苦しさと気持ち悪さに目を潤ませながら、母に側にいて欲しかったと思った。それが無理でも、側に誰か一緒にいてもらって告知を聞きたかった。誰か居たら居たで、取り乱して一人になりたい!って思ったかもしれないけれど、でも今は誰かに背中をさすっていてもらいたかった・・・。
この日から、改めて私とこの病気の生活が始まった。
大学三年の五月頃、病院から連絡があり、改めて出向いた。
詳しい検査結果が出て「空胞を伴う遠位型ミオパチー」という病名を初めて告げられた。
担当医師は、
「まだまだ不明なことだらけの病気でどれくらいのスピードでどこまで進行するのか、はっきりわかってはいないし個人差も大いにある。ある日どこかで進行が止まる可能性だってないとは言い切れない。」と前置きした上で
・身体の末端部分の筋肉から徐々に細くなって動かすことが困難になっていくこと。
・一部例外の症例もあるようだけれど、内臓筋力や呼吸器・心臓などには影響がないこと。
・首よりも上の部分、頭に関しては影響がないこと。
・日本には約百人ぐらいの同じ症状の患者がいると言われているけれど、専門的な医師や医療機関不足で把握し切れていないことが多く、実際はもっと多いのではないかということ。そして進行を止める薬も治療方法も今はない、ということを言葉を選びつつ説明してくれた。
目は見えていても、お先真っ暗とはこのことかと思った。とりあえず、今すぐ寿命に影響がある病ではないということは分かったけれど、治療方法が一切無いというのは、心が折れそうになった。病状についても、「〜かもしれない。」、「〜らしい」ということばかりで、何が典型的で何が例外という線引きもまだまだこれからという、曖昧なことしか分からなかった。唯一わかったことは、徐々に不自由になっていく自分の身体と向き合っていくしかない、ということ。だからといって、安静にしていればいいわけではないらしく、日常的にできるかぎりの運動や筋力は使っていく方がよい、と言う。何もしなくても筋組織は細くなってしまうから、筋肉を使うことで進行のスピードを和らげることはできるらしい。ただし、筋肉痛を引き起こすほどの過度の負担をかけると筋組織が破壊され過ぎてしまうから、やり過ぎは良くない。
普通、トレーニングをすると一度筋組織は破壊されるが、その刺激で身体には「超回復」という現象が起きて、トレーニング前よりも再生されて、その結果筋組織は増大する。この病気の場合、再生が少なくて破壊の割合の方が勝るので結果的に筋組織が減少してしまうという。
色々なことが分かってきたが、制約が多すぎて、そんな都合良くできるんだろうか?と思った。しかし、やっていくしかないという。
不安なことだらけだった。
これからはできることと、できないことをしっかり見極めていく必要がある。そんな私と同じ病を持つ人が少なくとも百人はこの日本にいる。その事実が分かって、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。だからといって病気の症状には何も影響はないけれど、世の中には、まだ一人しか見つかっていない病気というのもあるらしい。もちろん一人だから治療方法も何もかも分かっていない。
遠位型ミオパチーには研究者もいるようだし、いつかは治療方法も判明するかもしれない。ただ、それがいつになるか分からない。それまでは、この自分自身の身体と向き合っていくことが最大の課題のようだった。
中学生の頃から続いていた身体の不調は、ずっとこれが関係していたのか。何年間も抱え続けていた疑問が急速に解明していったが、思いの外、心模様は暗く、病院の窓から見えた晴れ晴れとした初夏の空とは対照的だった。
(続く