第二話 明日香 十五歳 父
中学三年になる春。父が亡くなった。
近所の友人家族と毎年春スキーに出かけるのが恒例になっていた。
どこの家庭にも年間を通じて、恒例行事というのがあったと思う。我が家は夏の温泉旅行と春のスキーがそうだった。家から車で五〜六時間かけて長野県の方まで行き、ひたすら滑る。
相変わらずの運動オンチの私だが、スキーだけは小さな頃から連れてこられていたので得意だった。何よりリフトで上ってしまえば、あとは重心移動だけで滑れる。自分の感覚次第で、スピードを上げたり、ゆっくり景色を眺めたり、コントロールできるのがいい。
大人達は、ゲレンデに着くなり早々、酒盛りをしていた。何杯とビールや日本酒をあおった後に、滑って転びもせず、休憩をしてまた滑る。夜はロッジで晩餐。まさに底なしだった。毎年のことなので気にもとめず、私と友人はお互いの進路のことをしゃべるのもそこそこに、好きなタレントの話などおしゃべりをしつつ夜が過ぎていった。
ただ、布団に入ってからも例年に比べて太ももの前面の筋肉痛がひどかった。スキーもなかなかハードなスポーツだが、剣道部で鍛えた足腰を持ってしてもいつも通り筋肉痛はやってきた。
朝がきて疲労と睡眠不足で醒めていない頭のまま、また車で数時間かけて家に戻り、さすがに父も疲れたのか、和室で居眠りを始めた。そして、そのまま意識が戻ることはなかった。急性の脳溢血だった。
次の日、「父のものであった身体」は冷たくなり、葬儀屋があわただしく出入りしていた。涙や悲しみに浸ることも忘れるぐらいあっけない最期。
好きなことを好きなようにやり、生きた父。それは自分だけが例外ではなく、家族の私たちにも常々「おまえたちも好きなように自分の道を選べ」というようなことを言う父。
幼少期、「極貧」の生活を強いられた父は、「自分の家族には貧しさから人生の選択肢を狭めねばならない生き方をさせることを嫌った」と後に母に聞いた。
結果論でしかないが、後々考えてみると彼は一番よい時期に逝ったと思う。
この後、私の身に起きる病について何も知らずにこの世を去れたのだから。
◇ ◇ ◇
中学三年の夏。
家族の死とは関係なく、学校と家での生活は淡々と過ぎていく。春が過ぎ、夏の大会が終わると三年生は初めての「引退」を向かえる。中高一貫の学校ならば、この時期でも練習を欠かさないのだろうけど、私の学校はあくまでも普通の学校だ。受験を控えた三年生にとって、自然な流れだろう。
別に好きこのんで始めたわけでもないが、毎日の生活リズムから部活動がなくなるのは切なかった。幸いにも、あれほど悩まされた筋肉痛の苦しみからは解放され、学校と家を往復しつつ、一般の受験生としてそれなりに勉強をする時間が増えた。
少しでも運動を集中的にやったことがある人ならば誰もが経験するものだと思うが、ピタッと運動を止めた私の身体からは、あっという間に筋肉が落ちた。
現役時代、これぞ太もも!というぐらいだったかどうかは秘密にするとして、それでも「太もも筋」は、あった。けれど、秋の全校マラソン大会ではかろうじて女子の十位に入れたが、なかなか厳しい闘いだった。
もちろん、この後も懐かしの『悪夢の筋肉痛』が待っていたことは言うまでもない。
そして春。父の言葉通り、私は私の行きたいと思う高校に入学した。
中学三年になる春。父が亡くなった。
近所の友人家族と毎年春スキーに出かけるのが恒例になっていた。
どこの家庭にも年間を通じて、恒例行事というのがあったと思う。我が家は夏の温泉旅行と春のスキーがそうだった。家から車で五〜六時間かけて長野県の方まで行き、ひたすら滑る。
相変わらずの運動オンチの私だが、スキーだけは小さな頃から連れてこられていたので得意だった。何よりリフトで上ってしまえば、あとは重心移動だけで滑れる。自分の感覚次第で、スピードを上げたり、ゆっくり景色を眺めたり、コントロールできるのがいい。
大人達は、ゲレンデに着くなり早々、酒盛りをしていた。何杯とビールや日本酒をあおった後に、滑って転びもせず、休憩をしてまた滑る。夜はロッジで晩餐。まさに底なしだった。毎年のことなので気にもとめず、私と友人はお互いの進路のことをしゃべるのもそこそこに、好きなタレントの話などおしゃべりをしつつ夜が過ぎていった。
ただ、布団に入ってからも例年に比べて太ももの前面の筋肉痛がひどかった。スキーもなかなかハードなスポーツだが、剣道部で鍛えた足腰を持ってしてもいつも通り筋肉痛はやってきた。
朝がきて疲労と睡眠不足で醒めていない頭のまま、また車で数時間かけて家に戻り、さすがに父も疲れたのか、和室で居眠りを始めた。そして、そのまま意識が戻ることはなかった。急性の脳溢血だった。
次の日、「父のものであった身体」は冷たくなり、葬儀屋があわただしく出入りしていた。涙や悲しみに浸ることも忘れるぐらいあっけない最期。
好きなことを好きなようにやり、生きた父。それは自分だけが例外ではなく、家族の私たちにも常々「おまえたちも好きなように自分の道を選べ」というようなことを言う父。
幼少期、「極貧」の生活を強いられた父は、「自分の家族には貧しさから人生の選択肢を狭めねばならない生き方をさせることを嫌った」と後に母に聞いた。
結果論でしかないが、後々考えてみると彼は一番よい時期に逝ったと思う。
この後、私の身に起きる病について何も知らずにこの世を去れたのだから。
◇ ◇ ◇
中学三年の夏。
家族の死とは関係なく、学校と家での生活は淡々と過ぎていく。春が過ぎ、夏の大会が終わると三年生は初めての「引退」を向かえる。中高一貫の学校ならば、この時期でも練習を欠かさないのだろうけど、私の学校はあくまでも普通の学校だ。受験を控えた三年生にとって、自然な流れだろう。
別に好きこのんで始めたわけでもないが、毎日の生活リズムから部活動がなくなるのは切なかった。幸いにも、あれほど悩まされた筋肉痛の苦しみからは解放され、学校と家を往復しつつ、一般の受験生としてそれなりに勉強をする時間が増えた。
少しでも運動を集中的にやったことがある人ならば誰もが経験するものだと思うが、ピタッと運動を止めた私の身体からは、あっという間に筋肉が落ちた。
現役時代、これぞ太もも!というぐらいだったかどうかは秘密にするとして、それでも「太もも筋」は、あった。けれど、秋の全校マラソン大会ではかろうじて女子の十位に入れたが、なかなか厳しい闘いだった。
もちろん、この後も懐かしの『悪夢の筋肉痛』が待っていたことは言うまでもない。
そして春。父の言葉通り、私は私の行きたいと思う高校に入学した。