連載『私の青写真』 序

以下の物語は、2008年に、私がインタビューをして執筆した
いわゆる創作・フィクションです。
けれど、あの日から、何が変わり、何がよくなったのでしょう。

2014年という年は、難病の新法律が制定され
2015年からは、新法律が施行されます。

この六年は、どういった時間だったのか?
そして、これからもっと急速に状況は進展するのか。

もう一度、考え直すために、難病について考えるきっかけの一つとして
この物語を再度UPしていきたいと思います。

2014年9月 林未来彦





この物語について

「遠位型ミオパチー」

手指や下腿など手足の先から筋力が低下していく病気があります。それが「遠位型ミオパチー」です。日本できちんとした遺伝子検査実施が普及されていないことや、この病気をよく知り診断できる医師も限られる現状から、実態は把握できていません。様々な統計から、現時点では本邦には300~400人の患者さんがおられると推定されています。遺伝子診断を行っている施設では、診断を確実にした例が増えています。本邦には1,000人以上おられるのではないかと推定している研究者もいます。多くの場合、徐々に進行し、日常生活の介助が必要となります。

以上、遠位型ミオパチー患者会ホームページより引用

二○○八年十月現在、治療薬はおろか治療方法もない不治の病です。にも関わらず、患者数の少なさや現状把握の乏しさから、国の特定疾患にも指定されていません。(追記:2014年、遂に指定難病に制定されました)

二○○八年四月。患者会が設立され、国への署名活動・医療薬開発資金のための募金活動・マスメディアへのPRなど、様々な活動は始まりましたが、患者の手元に薬が届き回復へのスタートラインに立つにはほど遠い状態です。
これからお届けする小説は、限りなく事実に基づいたフィクション作品です。登場人物は架空の主人公ですが、病の症状は実際の患者の身に今現在起きていることです。症状に個人差はありますが、発病は二十〜三十代の男女問わず徐々に始まるといいます。
ですが四十代〜以降の患者の方もいますし、何しろ分からないことだらけの病です。「自分には関係ない」ではなく、自分自身やこれから生まれてくる子供達にも可能性のある病。そのことを認識して、一日も早く事態の改善が行われることを祈ります。

患者会・マスメディアなどの情報とはまた違った角度からこの病と向き合い、この物語が少しでも「遠位型ミオパチー」という病の現状を理解する手助けになることを願って、この物語を公開させていただきます。

最後に。
長時間に及ぶインタビューに協力して頂いた私の友人に深く感謝いたします。
oct,2008
著者:林未来彦



『序』 明日香 二十八歳
三ヶ月、半年、一年。昨日から今日への大きな変化は無い。
けれど、一日の生活をする中で、ふと気づく時がある。

(そういえば、三ヶ月前ぐらいまでは手すりが無くても階段を昇れていた・・・)

そんな、ほんの少しのことが積み重なって、今できること、困難なこと、身の危険を感じるために止めざるをえないこと、「できる動作」よりも、「できない動作」が増えていく。ちょっとした横着で転倒し、顔にこぶを作ったこともあった。

できる限りの範囲で、身体を動かして生活筋力の維持をしなければならないが、無理はできない。自分の身体から発せられる声を聞いて、いつできなくなるのか分からないが、次の段階への準備を考えておかなくてはならない。まだ筋肉が身体のあちこちに残っている頃は、自分自身で動けるがゆえに、今よりも、筋肉が痩せ細っていくスピードが速かったように思う。近頃は、ほとんどの筋肉が細くなりきってしまったので、かえって進行のスピードは遅く感じる。とはいえ、常に病状は進行している。

今思えば、中学生の頃から病気の症状は始まっていたのだなと思う。
私の生きてきた人生の半分は、この病と共にある。
回復の見込みも薬も「今は」ない。

私は『遠位型ミオパチー』という病気と共に生きている。

下向きに、後ろ向きに物事を思っても何も変わらない。シンプルで心地良い暮らしができれば幸せ。
ただ、それだけを願う。







第一話 明日香 十四歳 不可思議な筋肉痛

祖父がそれを大切な宝物のように買ってきたのはいつだったろう。まだ私が幼稚園に上がるかどうかの頃のような気がする。退職して数年が経ち、彼は念願のレコードプレーヤーを手に入れることができた。それからというもの、外出するたびに新しいレコードを買ってきては、和室にこもって聴いていた。あぐらをかき、ジャケットの背面を丹念に読みながら揺れる背中を覚えている。


「あーすか、来てごらん。」


厳格な祖父であったが、音楽を聴いている時は妙に優しい。子供心ながら今は多少のワガママを言っても怒られないことを知っていた。祖父の組まれた足の真ん中に座り、一緒にジャケットを見る。

「じいちゃん、これだぁれ?」

「これはな、マリアカラスっちゅー歌手や。えぇ声やろぉ」

「ふーん。うしろのひともスゴいねぇ」

「これはオーケストラいうて、みーんなで曲を演奏しとるんよ。あすかのしとるピアノは一人でできるやろうけど、これはみんなで音を出しとるから、やっぱり迫力が違うやろ!」

音楽の話をしている時と、ビールを飲んでいる時の祖父は饒舌だった。大人達にとっては色々気難しい人だったのかもしれないが、私には色々なレコードを聴かせてくれた人、として記憶に残っている。

◇         ◇         ◇

中学生になって、初めは吹奏楽部に入りたかったが運動系のクラブしかなかった。

本の虫!というほど文化系でもなく、運動することに特別な抵抗はなかったが、運動神経がいい方だと思ったことはない。むしろ悪い方だろう。女子の中では背も高いほうだったから、手足は自慢じゃないが、まぁまぁ長い。だからといって足が速いかどうかは別だ。

私の中学は半強制的にできるだけ運動部に入りましょう、というスポーツ進学校でもないのに迷惑な風習があったので、結局、剣道部に入部した。運動の苦手な私にとって、どこにいっても同じだと思った。仲の良かった友達が誘ってくれたことと、クラブ見学をした時の雰囲気で、人間関係が一番良さそうという理由で決めた。言うなれば「成り行き」でしかない。

中学生とはいえ練習内容は、かなり厳しかった。竹刀を使うのだから、腕力を鍛えるものという先入観があったが、重い防具を付けて、動かなくてはいけないのだから当然なのだろうけど、足腰のトレーニングの方が多いのは意外だった。

近隣の学校との練習試合もあったし、毎日が限界への挑戦という感じだった。

人生で一番真剣に運動していたこの時期だったが、二日に一回は鍛えているにもかかわらず、練習後はいつも筋肉痛に悩まされた。一日の最後は全員で整理体操とストレッチをすることになっているのに、私だけが筋肉痛になっていることがとても多かった。でも、この頃は人一倍筋肉疲労が取れにくい体質なのだろうとだけ思っていた。

今思えば、病気の発症はこの一年後ぐらいから始まった。


(続く)